昭和40年03月07日 夜の御理解
今朝から、福岡の東さんがお参りをしてきました。先生今朝方から、こういうようなお夢を頂いたと言うんです。警察官ですから柔道をやってるんです。ところがその僕よりも強い先輩がたくさんおるのに、夢の中ではその先輩を全部、その有段者ばかりなんですけどれも、それを全部その手玉のように投げておるという。ね。いつの間にこんなに自分が強なったじゃろうかという。
ところがです。それをその審判をしておる人がですね。僕がその投げたりもう一本と例えば言われなければならないような決め手を、のそのおかげを頂いてもです、その投げた時には、審判ホッと横を見てからその気付かない。そしてその一本と言わんわけなんですね。もうもやもやしてその、目が覚めたと言うわけなんです。私しは申しました。私の事考えたらいい、私の事考えたらわかるよと私は申しました。
皆さんどうでしょう分かるでしょうか。これは今麻生さんが出て参りましたから、今朝からのお夢をお届けしておるんです。ダイヤの指輪ところがそのダイヤの玉だけ 転げ落ちた。というそのお夢なんですね。例えばです本当のそのダイヤ、しかも世にも珍しいと言う様な大きなダイヤ、それが石ころの中にもし落ちておったとしてご覧なさい。どんなに石ころの中に落ちておりましても、必ず誰かが拾うでしょう。
何故って燦然と輝いておりますものね、拾うてみたところがガラスだったではいけんのですけれども、ほんとのもんであれば必ずこりゃ、ウィンド店のいわば陳列に飾られたり、貴婦人の帯止めとか、ね、いわゆるアクセサリーなんかに必ず、使われる事が出来ると私は思うんです。それは成程ダイヤが落ちては、ダイヤその物の値打ちはない。ごといかにも見える。例えばそれがプラチナの台でありましてもです。
いわゆる、玉の落ちた、プラチナのダイヤでは値打がちない、だからこれは相呼ぶ時が来る。必ずひらわれる時が、そしてウィンド店、ウインドウの中で、宝石店のウインドウの中で燦然と輝き、とおりの目を楽しませるような、または貴婦人の、体のどこかの一部にです。アクセサリーに、使われるような、時期が必ず私は来ると思う。問題はそれがほんなもんであるということなんです。
いかにもダイヤのようにしておったけれども、ガラス玉だったというのでは、いけませんからね。私は椛目の場合でもそうだ。もう椛目がここにこうしておかげを頂くようになって、もうこの十月には、いわゆる、満15年の、記念式典が行われるはずなのである。ね。十五年たてば、まあ大体人間で言うても、まあいうなら元服である。大人の仲間入りをするということである。
ところが内容は幼稚な物であったと言う事ではいけんもんね。内容は幼稚であったということであっては、外から見たところが大した事がないけれど、中に入ってみて驚いた。先生も立派だが信者さん方も皆立派なんだ。成程あれが金光教の真の信心であろう、信奉者はああなからなけらいくまい、取次者はああなからなけらいくまい、と言われる位の先生であり、または信者であらなければならないと私は思うんです。
例えばけれどもですね。それがですただそれをそう見せたいばかりのものであってはならないと言う事。例えばご造営の話が進められております。何千坪の敷地を、敷地を買わせてもろうた。ね。何百メートルにわたる、例えば今度の候補地のとこなんかも、あれは参道でズーッとこう、石が敷き詰められたら見事な参道ができるだろう。ああさすがに椛目だと、と人に言うてもろうたり、褒めてもろうたり、見直してもらう為のそれであってはならないということ。
私は、総代の方達のこの ?今度のご造営のことについての、敷地問題やら建築の問題なんかでもです。そういうようなものがあってはならないと思うですね。どこまでも私はもお道の信心をです。どこまでも、人が助かる事さえできれば良いという、信心であり内容であり、また、お広前がそういう場でなからなければならないということ、。今日長女がある教会に参りまして、それこそ飛ぶ鳥を落とすような勢いの御ひれいのたった一時の教会なんですけれど現在ではいうならおは打ち枯らしたもう実に淋しい。
そりゃもう奥の方へ入らせてもろうたら、その調度品なんかはそれはすばらしい。いうなら紫檀、黒檀のいわば、そのう、茶碗なんかが並べられて、ほんとにその時代のごひれいを偲ぶには十分の、お広前げはあるけれども、中はほんとに淋しいことだったとこう。ね、外側だけは、そのガランドウはすばらしかってもです、中身が、中身がなかったらもうお終い。生きた働きがなくなったらもうつまらん。
椛目の場合はだからあたくしは、ね、それは外観も中身もと言いたいことだけれども、まずまず中身だと私は思う。為にはです。今日、東さんが頂いとりますような、ところから一つヒントを得なければならない。ね。自分が柔道で誰も彼もどんどんなげておる。けれど審判はそれを見てないことして向こうを向いておる。一本、また一本と、言わなければならないのに、全然それを言わない。
もやもやしてから目が覚めたと、と言う様な事ではいけないという事。私共そういう場合、ちともやもやしとる様な事がありませんでしょうかね。椛目の場合なんかは、もう自分、吾がもん宝で、もう椛目はもう立派なもののように皆が思っておるでしょう。椛目の生き方がほんとのことのように思うとるでしょう。ですからこれを、これを見てからどうこう言うところがあるだろうかと、皆が認めてくれない事がはがゆい事と、思てるようなことはなかろうか、審判官がよそ見をしておると、ところにです。
はがゆさを感じておるような事は無かろうか、それでは、いわば柔道の精神にも劣るのであり、信心の精神にも劣るのであるということ、それでは。私は、柔道の精神というのがどういうことか知りません。ね。けれども、その柔道の精神がです。ただ、段をとるということだけが精神じゃないと思うんです。ね。問題は実力なのだ。もちろん技も力の上においてもです。
とにかく相手を倒す、相手を倒すだけの力を技を身に付けることだと私は思うんです。ところがその技を力を人に認めてもらわなかったらです。腹が立つ、だから、どうでもこうでも分からしたいと思て、いうなら、堂々たるお広前のご造営がでけた。そういうようなことでは、そのご造営は私はおかげを落とすと思う。人に見せる為のご造営だもんね。認めてくれなかった人達に認めさせる為のご造営になるもの。
問題は人が助かりさえすれば良い、という場でなからなければならないということ、ここんところを私はですね、少し今朝から、東さんのお夢を頂かしてもろうてから、多かれ少なかれ私共の心の中にです。認めさせたい。認めてもらいたい。そんなものがあるのじゃなかろうかとこう思いますね。いわゆる、信心のほんとの精神に基づいていないということ。近藤、白神、佐藤といわれるような。
教祖の直信の方達が教団設立を教祖に願われた時に、教祖の神様が仰られた。その時は大変、その機嫌の悪い気色であったそうですね。しばらくご返事をなさらなかったそうです。教団の設立を願い出た時に、そして、教祖の神様が仰られたことはです。「この方は人が助かることさえできれば、結構であります」という意味の事を仰ったそうです。この方は人が助かることさえできれば、良いのだという事。
だからどこまでも、私共の精神とする所をそこに置かれなければならないと言う事、これはうんなら取次の先生だけであっちゃならないと言う事、ね、ほんとに椛目なら椛目のお広前の御縁頂く、皆さんの一人一人がです。人が助かる事さえ出来ればという、その人が助かる事さえ出来ればと言うその人自身が、まず助からなければダメという事、ね、そこで、ほんとなものである事を一生懸命努めなければならない。
椛目の場合なんかは、さあ一時はああして、教旗を、教旗て椛目の神愛会旗を立てた時代があった。金光教神愛会の看板を立てた事もあったけれども、それも上げちゃいかん、これも掛かちゃいけないといったような、干渉を受けて、何にも無い。問題ではない。私にとっては、人が助かることさえできりゃぁ良いのである。どんな山ん中であろうが看板は掛かっておるまいが、人が助かりさえすれば、甘い物に集まって来る蟻のように集まって来る。私はそう確信しておる。ね。
必ずも教師にならんでもいい、教会の看板上げんでもいい、きっと神様は認めて下さる時期が来た時には、認めて下さるに違いはない。だからその、その時にです。いわゆるひらい上げられた時にです。ダイヤがほんとなのんでなからなければならないということ、ね、はぁあ、そこの信者中々行き届いておる。昨日そんな話しがありました。椛目の信者が御本部参拝なんかででも、皆がまあ、、まコロッとしとるわけです。
殆どが椛目の信者が占めるもんですからね、汽車の中を、けども皆さんの態度がまあいくらか、良く見えるわけ、ね、だから椛目の信者を見ておると、あそこの信心は、あ中々、信者は立派である。けれども大坪さん自身の信心を見たら、がっかりした。というようなことであっちゃならんし、またそれが反対のことであってもならん。始めて参って来た人達がです。何とはなしに椛目にある雰囲気を頂いて、有り難いと思い、それが二度三度とお参りしなければおられないということになって来る。
今日なんか熊本から自転車で参って来た山田さん、たまやから大山さんが参って来た熊本の、伊万里から三人連れで参られた。丁度福岡からと徳久さんが参って来た。久留米から、矢次さん夫婦、丁度あそこから十名余り、遠隔の人達ばっかりが集まった。丁度お昼の時間になりましたから、私ここを下がらせて頂いてから、まあ一緒にお食事をさせて頂いたわけなんですけれども、やっぱり有り難いと私は思う。
何の為ならば自転車で、片道七時間往復十四時間かかる。しかも週に一回ずつもお参りをして来るということは、何かがあるのだここには、ね、伊万里辺りの1日掛かりで歩いてお参りをして来るという人がある。何かがあるのだとここに来てみて、いわば見た人はそれが分かるんだけれども、まだいうなら小石やらの中に落ちてるダイヤの、まあいうならばダイヤのような物ではなかろうか。ま燦然と輝いとるごたるある。
ところがそれがほんとなもんでなかったら、がっかり。今日なんか私はもう、二百五十名から今日お届けをさせて頂いた。その二百五十名の人達が一人一人がです。真実助からなければね、いわゆるそれを助かる事さえ出来ればという精神の下にです、お取次ぎさせて頂く。ためには私自身が助かっておらなければならないという事、自分があっぷあっぷ言いおってから、溺れた者を助ける事は出来ゃぁやあしません。
ね、自分が徳の舟にならせて頂いておって始めて、溺れてる者も引き上げることができるようなものだと、私は思う。で、そこで助けられておる皆さんがです。ほんとに助かる、助かった姿がです。なるほど椛目の信者は、何とはなしにどことはなしに違うぞと、ね、ダイヤの石にも似たような物を持っておるぞと、と私は皆さんの信心の内容もです。高められて行かなければならない。
これみよがしのです。それもただ認めもらいたいばっかりにです。ね。ただ団体行動だ、御本部参拝時などです。団体行動しておる時だけ、見事であっただけではいけない。家庭においてもそうでなかなきゃならない。お広前においてもしかりである。私は今日、その、麻生さんのお夢と東さんが頂いたというそのお夢とを二つ併せてから、まあいうなら今日のご理解を頂いたわけなんですけれども、そのお夢の御神意はそういうような事にありゃせんだろかと、私は思うた。
はああたし達がもう見栄とか気障とか言った様なものが、椛目は中々そういう所がちょっとあるんです。気障なところが。ですから例えばもうご造営ならご造営というものがです。計画しても不成就に終わる、ね、ならばそこに何か神様のご機感叶わない不浄が、お互いの心の中にあるとまず知らなければいけないと私はおもう。どういう不浄かとまず第一にです。認めてもらいたいばっかりのです。認めさせねばおかん。
いうならもう意地、針ででも立派なお広前を建立しなければならないと言う様な、建立であっては、これは神様の機感に叶わんと私は思う。どこまでも人が取次ぎに助けれることの為にです。環境なり雰囲気なりがです、本当にそういうおかげを頂くことの為に、ご造営でなからなきゃならん。一人でも多くの人がいわば参集して集まって、沢山の助かりになって行く事の為に、広いお広前でなからなければならんのであり、いわば立派なお広前でなからなければならないということ。
お広前だけが立派だけれども、中に入ったら淋しかった、なんていうようなことであっては、ならない為にもです、私共の信心がいよいよ底光りのする。拾い上げられてなるほどと合点のいかれる。それが現在私共の場合はです。看板一つ揚げられないという立場にあるのですけれどもです。それでいいのです。昔、徳川時代に大変、全国が疲弊した時代があった。そこで幕府はその、町人、百姓は絹物を身に付けてはならないという、贅沢禁止令というのが出た。
どんなに金を持っとっても町人、百姓では絹物が着られないということ、絹物着るのはもう侍の階級だけだし、しか着られんという時代があった。そこで町人やら百姓やらのです。物持ちが考え出したんです。それがあの紬(つむぎ)だということでございます。脆い物一見脆い物に見えるけれども、実際はその絹物よりももっと上品なです。深みのある物であったということでございます。ね。
私共が今こそです。その、それこそ手にとってみたらすばらしい、木綿物かと思ったら紬だったと、言われるようなです。信心を頂い切っておかなければならない。身に付けておかなければならない。精神はどこまでもです。例えば柔道の精神がです。勝つ事にあるのならばやっぱり、勝ちさえすればいいのだと、段なんか問題じゃない。無段であっても、五段のものから投げられてもいいじゃないか、と、そうでしょうが。
どうして審判官に認めて貰わなければならないと言う事があるか。教師じゃなくてもです。私の場合は人が助かりさえすればいいじゃないか、どこの誰が助けきらなかったと言う様なものでも、ね、私の信心で私の信用で、神様がおかげを下さる様なおかげを頂いたら、それでいいじゃあないか。皆さんでもそうです。( ? )いわば、いち、神愛会の会員の一人一人がです、神様から○○先生とこう呼びかけられる位なです。力を受けてはならんということはないのだから、力を受けなければならない。
お徳を受けなければならない。そしてその御用の上に現れて来るその御用そのものもです。ね。(人みし?)の為の御用じゃあない。まず私共が助かることの為に、自分達の心のふるさ、心の故郷としてそれに相応しいお広前、人が助かることさえできれば良いという精神のもとでのお広前、そういう意味合いにおいて、神様にお縋りさして頂いたら、ご造営もまた、スムーズにおかげを頂くのじゃないかと。少しでもただ今私が申しましたようなです、不純なものがです、不浄になっておるようなことがあってはならないと思うのです。おかげを頂か・・・